- ニュース

写真:エスター・ダイソン/Flickr CC
1981 年 2 月 19 日: Macintosh プロジェクトの創始者であるジェフ・ラスキンが、Apple CEO のマイク・スコットにメモを送り、スティーブ・ジョブズと働くことに関する多くの不満を列挙した。
同氏は、前月にマックチームに加わったジョブズ氏が遅刻癖があり、判断力が悪く、人の話を遮り、話を聞かず、悪いマネージャーであると主張している。
ジェフ・ラスキンのMacに対する当初のビジョン
ラスキン氏が1979年に取り組み始めたMacの当初の構想は、Appleが1984年に最終的に出荷したマシンとはまったく異なるものだった。
ラスキンは、個別のプログラムに頼るのではなく、ユーザーの行動に適応する能力を備えた、非常にポータブルなコンピューターを思い描いていました。彼の構想では、文字を入力するとMacはワープロとして動作することを認識し、数式を入力すると電卓として動作するはずでした。
ラスキンはマウスを使うというアイデアを好まなかった。マウスを使うと、ユーザーがキーボードからマウスへ、そしてまたキーボードへ、と手を動かし続けることになるからだ。また、ラスキンは完成したコンピュータの販売価格を500ドル以下に抑えたいと考えていた(当時、Apple IIは1,298ドル、ベーシックなTRS-80でさえ599ドルだった)。
ジェフ・ラスキンとスティーブ・ジョブズがMacをめぐって衝突
ラスキンは、その数年前の1979年9月にMacの仕様をめぐってジョブズと衝突した。ラスキンは価格(ひいては入手しやすさ)こそがMacの最大の指針だと考えていた。ジョブズは価格に関わらず、入手可能な最高のコンピュータを求めていた。
その結果は? ラスキンはジョブズに皮肉たっぷりの手紙を送り、「能力から始めるのはナンセンスだ。価格目標と能力の両方から始め、今日の、そして近い将来のテクノロジーに目を向けなければならない」と主張した。
その時点で問題は解決したかに見えた。ジョブズは他のプロジェクト、主にApple Lisa(グラフィカルインターフェースとマウスを搭載した同社初のコンピュータ)の開発に忙しくしていた。しかし、1980年秋、ジョブズがLisaチームで問題を起こしたとしてチームから追放されたことで状況は一変した。
やがて、Appleの共同創業者であるジョブズはMacのオフィスを訪れるようになった。1981年1月20日、ロナルド・レーガンが大統領に就任したその日、ジョブズは正式にMacグループに加わった。
スティーブ・ジョブズの欠点をまとめたメモ
新人にもかかわらず、ジョブズはすぐにMacプロジェクトの方向性をめぐってラスキンと対立し始めた。コントロールを失うことを恐れたラスキンは、CEOのマイク・スコットにジョブズとの問題点を列挙したメモを送った。その内容は以下の通りだった。
- ジョブズは定期的に約束を破る。
- 彼は考えずに悪い判断で行動します。
- 彼は当然認めるべき功績を認めない。
- ジョブズ氏はしばしば個人攻撃的に反応する。
- 彼は父親らしく振る舞おうとして、不合理で無駄な決断を下します。
- 彼は話を遮って聞かない。
- 彼は約束を守らず、義務も果たさない。
- 彼は教皇の命令で決断を下す。
- 楽観的な見積もり。
- ジョブズはしばしば無責任で思いやりに欠ける。
- 彼はソフトウェアプロジェクトのマネージャーとしては不適格だ。
当時のジョブズを知る他の人々と話をしたところによると、ラスキンの批判は根拠のないものではないとのことだった。しかし、ジョブズは確かに多くの素晴らしいアイデアを持ち込んだ。もっとも、それらはラスキン自身のMacに対するビジョンとは相容れないことが多かったが。
どちらにしても、それは問題ではなかった。ジョブズはアップルの共同創業者としての立場から、間もなくMacプロジェクトの全権を握ることとなった。
ラスキンは翌年アップルを退社した。彼が開発したMacintosh、あるいはそれに近い機種は、数年後にキヤノン・キャットとして発売されたが、すぐに姿を消した。CEOのスコットはさらに早くアップルを去り、1981年7月10日に辞任した。